なぜ自分はタトゥーを入れたのか

タトゥー

― 理由が説明できなくても、判断は揺らがなかった

タトゥーを入れた瞬間よりも、
その翌日の方が記憶に残っている。
鏡に映った自分を見たとき、
高揚よりも「もう戻れないな」という認識が先に来た。

タトゥーを入れた理由を聞かれることは多い。
強い信念があったのか、
反抗心があったのか、
人生の転機だったのかと期待される。
だが、自分には分かりやすい理由はない。
昔から好きだった。
それだけだ。

首、胸、腕。
量は多い方だと思う。
入れたことで困る場面がないわけではない。
視線を感じることもあるし、
職務質問を受けたこともある。
それでも後悔はしていない。

理由を言語化できない選択は、
軽く見られがちだ。
勢いだとか、
若さゆえだとか、
説明不足だと言われることもある。
しかし、自分にとっては逆だった。

理由を説明できないからこそ、
後から他人の評価で揺らがなかった。
誰かに納得してもらうための選択ではなく、
自分の判断として完結していたからだ。

学生時代から、
「普通」がよく分からなかった。
周囲が当然のように受け入れている価値観に、
自然に乗ることができなかった。
人から教わる人生や、
成功モデルをなぞる生き方に、
意味を感じられなかった。

社会に出てからもその感覚は変わらない。
会社員として働いた期間は一年ほどあるが、
仕事そのものより、
非効率な構造に違和感があった。
だから二十歳で起業した。
大きな理想があったわけではない。
その方が合理的だと判断しただけだ。

タトゥーも同じ延長線にある。
誇示でも反抗でもない。
「そう判断した」という事実が残っているだけだ。

理由が明確でない選択が、
軽く見られやすいのは事実だ。
社会では、選択には一貫した説明が求められる。
動機、目的、将来性。
それらが揃って初めて、
「正しい判断」として扱われやすい。

だが、すべての判断が
言語化できる形で生まれるわけではない。
むしろ、直感的で説明しにくい選択の方が、
後から揺らがないことも多い。

理由が曖昧な選択は、
他人の評価に左右されにくい。
なぜなら、その判断は
最初から他人に向けていないからだ。

重要なのは、
説明できるかどうかではなく、
選択を引き受けられるかどうかだ。
説明責任と自己責任は別物であり、
前者を満たさなくても、
後者を放棄する必要はない。

この視点で見れば、
理由のない選択は未熟ではなく、
判断の形式が異なるだけだと整理できる。

これは誰かに勧める話ではない。
ただ、理由を説明できない選択にも、
確かな判断が含まれていることを、
事実として残している。

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