思想や哲学に触れて、
救われたと感じた経験はある。
それは感情的な救いというより、
自分の感覚が例外ではないと
理解できたことによるものだった。
学生時代から、
周囲の価値観に違和感を覚えることが多かった。
だが、それを説明する言葉を持っていなかった。
その結果、
自分がおかしいのだと考えるしかなかった。
思想に触れることで、
同じ疑問を持った人間が過去にも存在し、
考え続けてきたことを知った。
孤立していないと分かっただけで、
十分だった。
一方で、
思想に寄りかかりすぎた時期もある。
考えることで現実から距離を取れるため、
便利な逃げ場になっていた。
思想は現実を説明してくれるが、
代わりに生きてくれるわけではない。
考えることと、
選択し続けることは別だ。
この区別がつかなくなったとき、
判断はむしろ不安定になった。
思想を正解のように扱い、
それに合わない現実を切り捨てようとしたからだ。
思想や哲学は、
個人の違和感を言語化する力を持っている。
それによって、
自分の感覚が例外ではないと理解できる。
一方で、思想を正解として扱い始めると、
判断の主体が外部に移りやすくなる。
考えているつもりで、
実際には依存している状態だ。
思想は、判断を補助する道具であって、
判断そのものを代替するものではない。
ここを取り違えると、
現実との摩擦が増える。
有効なのは、
思想を「使う」立場に留まることだ。
必要な部分だけ参照し、
最終判断は自分で行う。
この距離感が、
最も安定しやすい。
思想は人を救うことがあるが、
住み続ける場所にはならない。
それが、経験から整理できた事実だ。
今は距離を取っている。
思想は道具であり、
居場所ではないと考えている。
それくらいの距離感が、
最も合理的だった。
これは、
考えすぎて動けなくなった
過去の自分に向けた整理だ。


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